077_MtFuji
国の境涯


 人には誰人でも境涯というものがある。

 境涯は、その人の心の品位や人格の高低など精神的な面も大きな要因として含まれるが、それ以外に社会的な評価や生活環境など外的物質的な要因も関与した総合的な人間評価の概念であると思う。別の言い方をすれば、境涯とは品格と境遇を心の鏡に写した姿、とも言えるのではなかろうか。

 ある人がどのような境涯にあるか、ということを知るには仏法の英智である十界と十界互具を用いて識別していくのが最も合理的で判りやすい。
 十界も十界互具も心の実相を見極める方法ではあるが、その人のある心の状態がその人の心の基盤となっている場合、それはその人の境涯をも表している。
 例えば、人間として普通の平穏な心の状態は十界のうちの人界(にんかい)であるが、そのような心の状態が最も高い頻度で現れてくるのであれば、その人の境涯は人界にあると言える。
 もちろん十界互具であるから人界以外の心の状態にも刻々と移り変わりをしているはずであるが、そのように変化をしながらも人界に戻ってくるのであればその人の心の基盤は人界にあると言える。そのような場合、その人の境涯も人界にあると言えることになる。
 十界から見た場合、心の姿は境涯を反映している。

 十界と十界互具をわきまえて人の境涯を見ていくと、その人がなぜそのような言動をするのかを理解しやすくなり、またその人の長所や弱点も明らかになってくる。この意味で、十界・十界互具による境涯判別は、人間模様を織りなす人間社会の中で生きていく上で大きな力となるのは間違いない。また、境涯が高い方が有利であることに気がつけば、自分の境涯を高めていくことが人生の価値を高めることにもなることにも気づくはずである。

 人の境涯について十界・十界互具による認識について述べたが、ここで本題に入りたいと思う。

 私は、国にも境涯があり十界・十界互具の視点から国の境涯を見ていくことができるのではないか、と思っている。

 国は数多くの国民の集合体であり、さまざまな境涯を持つ人々が総体として国を形成している。従って、国に境涯があるのかどうか、また境涯があるとしても複雑な状態であり単純に境涯をみるということができるのかどうか、について疑問が出てくるのではないかとも思う。
 しかし、人の心の複雑さは既に人の集合体としての国の内部状況の複雑さに匹敵しており、国の複雑さは人の複雑さと同等であると、私は認識している。これゆえに国が人と同じように境涯を持っていることに全く違和感がない。また、国を境涯という視点から見ていくと、その国の動きが実に良く理解できることに驚いている。
 もちろん民主国家と独裁国家では境涯が異なる。独裁国家の方が人格的な国家運営が強くはたらいており国の境涯が独裁者の境涯に近くなる。また、民主国家の場合は国政の中心者の境涯と国の境涯とは必ずしも一致しないが、総体的には独裁国家よりは民主国家の方が境涯が高いということも言えよう。宗教国家の場合は、国教となっている宗教の教義が国の境涯に大きな影響を与えているように思える。

 十界・十界互具を用いて国の境涯を見てみる。日本の周辺の国について現在の状況を私なりに見た境涯を紹介する。十界の説明はKOzのエッセイの「心の実相(1)十界」からの引用である。

 韓国:修羅界
    修羅界(しゅらかい):怒りの心の状態をいう。常に勝他(他人に勝つ)
    の念がはたらき、歪んだ自尊心が他を見下すように働く。
    「諂曲(てんごく)なるは修羅」と要約される。
 中国:畜生界
    畜生界(ちくしょうかい):浅薄で目先のことのみにとらわれた愚かな心
    の状態をいう。また、強者を恐れ弱者をあなどる弱肉強食本能にとらわ
    れた状態にあるともいえる。
    「癡(おろか)は畜生」と要約される。
 北朝鮮:地獄界
    地獄界(じごくかい):苦悩・苦痛の底に沈み、自力ではその束縛から抜
    け出せないことに強い憤りが湧き出る心の状態をいう。
    「瞋(いか)るは地獄」と要約される。

 ちなみに、十界の位置付けは、修羅界>畜生界>地獄界 となっている。

 以上であるが、どうであろうか。

[参考文献など]
 KOzのエッセイ#043 「心の実相 (1) 十界」
 KOzのエッセイ#044 「心の実相 (2) 十界互具」