067_磨製石斧
縄文の謎 (2) 交易


 縄文時代には、現代人の想像を超える規模で日本列島を縦横に物資の移送が行われていた。
 各地の製品・特産品がどのような交換・交易ルールに基づいて流通していたのか、数百年・数千年もの期間にわたって継続した縄文経済の活動基盤となる製品の交換価値がどのように決められていたのか、これが縄文時代のもうひとつの大きな謎となっている。

 狭い地域社会においては物々交換によって、場合によっては対価無しにものを入手することも可能ではあろうが、なかば専業化した労働力によって生産された製品が大量にまた長期間にわたって効率よく流れるためには、その場その場での素朴な物々交換では無理があり、生産者・流通者・使用者間で共有できる何らかの価値基準が必ずあったはずだと、私は考えている。
 通貨に準ずるものがあったのか、もしくは、江戸時代の米のように標準価値を持つような製品・産品があったのか、それとも全く異なる交換・交易ルールがあったのか?
 本抄では、この謎に迫ってみたい。

(1) 縄文時代の生活概況
 まず、縄文時代はどんな時代であったのかを概略述べておきたい。
 日本列島には古くは5万年前から3万年前にかけて最初の人々が何回かにわたって、南、北、西から移入してきた。北は北海道から南は琉球列島にわたって広く居住域を広げたこれらの人たちは、骨角器や石器を道具に使い生活をしていた。このいわゆる日本における旧石器時代は約1万5千年前まで2万年以上続いた。

 日本以外の地域では、打製石器を使っていた旧石器時代から磨製石器を使い始める時期を新石器時代への移行とするのが一般的であるが、日本ではすでに旧石器時代の3万3千年前頃から世界に先駆けて磨製石器(刃先のみを研磨した局部磨製石器)が使われており、打製石器・磨製石器の使用区分により新旧石器時代を区分することは意味をなさない。
 このため日本古代史においては、一般的に土器の製作が始まる約1万6千年前までを旧石器時代とよび、これ以降を縄目の模様が入った土器(撚糸文系土器)になぞられて縄文時代と呼んでいる。

 縄文時代には、旧石器時代からの継承技術である黒曜石などを剥離してその鋭い刃を活かした打製石器も普及していたが、全体を研磨して製作した磨製石器の斧(おの)(磨製石斧)など高度に進化した石器も広く使われるようになった。なお、旧石器時代から使われていた打製石斧は縄文時代に入ってからも大量に使われているが、磨製石斧が登場してからは木の伐採用ではなく主に土堀り用の鍬(くわ)などの用途に転用された。

 縄文時代の最大の発明品は土器であり、いわゆる縄文土器により生活形態が大きく変貌を遂げることになった。
 磨製石斧によって木の伐採・切断も効率的にできるようになり、伐採できる木の径もより大きくなった。このため住居も、床には石板を敷き詰め、堅牢な構造材を使った定住型竪穴住居へと進化していった。大きなムラでは大型建築物を建てる専門家すら現れた。
 磨製石器の使用によって定住型住居が整えられるとともに、それと並行して土器による食生活の変化もまた定住化を促す要因となった。
 それまで生でんぷんの結晶構造とアクのために食用には適さなかったドングリ類、トチノキ、クズ、ワラビなどが土器を使ってゆでることによって十分な栄養が得られる食料となっていった。
 また土器は食品などの保存方法にも大きな変化をもたらした。土器の中に食料を貯えることによって、ネズミなどから食料を守ることが容易にできるようになった。
 土器や製粉に使う石皿・磨石によって、食料採取の場が拡大し定住地での食料確保が容易になると共に、これらの重い道具を伴って移動すること自体が負担となってきたことも定住化を促進した。
 定住化に伴い、クリやクルミなどの堅実樹や果樹などの補育管理のみならず、一部ではダイズなどの豆類や雑穀類の栽培までも行われるようになっていった。

 磨製石器と土器の普及などにより定住化が進み、谷合地(川の源流地で谷により分けられていた両岸が合流する場所)のように自然道の集合分岐点となる場所や、飲料水が確保でき食料採取が容易にできる丘陵地の端場などには数十軒の竪穴住居が集まりムラも誕生した。これに伴い、家族単位で構成される1~数軒の孤立居住地と数十人~数百人の集団地であるムラとの交流ネットワークが縄文社会の基礎構造となっていった。
 縄文時代の後に来る弥生時代になると広域の統治組織であるクニが誕生するが、縄文時代にはムラが最大規模の組織でありムラ長が調整役・指導者としてのムラの中心的存在として誕生してはいたが、まだ統治権力者と呼べる者は存在していない。
 また、縄文時代の文化は東日本が主体の東高西低であり、西日本の方が進んでいた弥生時代の西高東低とは文化の重心が異なっていた。

(2) 縄文時代の生産
 かつては、縄文時代は個々に孤立した自給自足の局地的な社会であった、という見方がなされていた。使う道具も全て身近に手に入る材料を使って使う人自身が作り、食料も必要にせまられて季節ごとに移動しながら狩猟したり採取していた、という旧石器時代の延長として自給自足の生活をしていた原始社会のイメージでとらえていた。
 石斧にしても近所の石を拾ってきて叩いたり擦り合わせながら形を整え拾ってきた木の枝に結びつけて作った、土器にしても近場で見つけた粘土をこねてツボの形にして焚き火で焼いた、というような見方である。

 しかしながら石斧にしても縄文土器にしても、その製品の完成度の高さから判断すると、実際に製作するには、適した材料・原料の確保、また場合によっては接着や着色のための特殊材料の入手、加工のための工具・器具の準備、製作のためのそれなりの高度な技巧・技術の習得、十分な作業時間と労働力の確保、など非常に大きな障壁が存在していた。
 自給自足で製作した生活用具は多々あったはずであるが、磨製石斧や縄文土器、漆器、硬玉装飾品などは専業的な作業者の存在とそれを支えるムラの社会組織がないととてもできないような先進製品であった。

 このような製品が作られたムラにおいても、通常の自給自足の生活の遺物も残されている場合が多いことより、通常の狩猟や食料採取などを行いながら合間をぬって製品の製作作業が行われた、と主張する見方もあるが、私は初期の作業兼務時期にはこのようなこともあったとは思うが、縄文時代の全期を通じて専業化が進んだというのが事実に則した見方であると思っている。
 ムラ人の全てが製品製作に関わること自体がありえることではなく、大多数のムラ人は自給自足のための日常の生活をしており、その上で専業的な製品製作者の活動の生活基盤を支えていた、ということであると思う。すなわち、製作専業者がいた、というのが遺物・遺跡から判断できる的確な見方であると思える。
 また、製品を大量に生産するということは、この製品を他の地域に運び別の産品・物品と交換するために行うことであり、製品の運搬と交換をするための専業的な人もいたはずであり、その専業的運搬者の生活基盤をも支えていたことになる。すなわち、交易専業者も製作専業者と合わせてムラとして抱えていたことになる。

 次に紹介する例は、縄文時代に特定の場所で大量に生産された特産品である。いずれの製品も生産・製作した工房やムラの居住者が必要とする以上の数量が生産されたことが明らかになっている。

 ① 貝
   [生産場所] 東京都北区 中里貝塚
   [生産品目] ハマグリ、マガキ(の乾燥品?)
   [補足説明] ハマグリとマガキの効率的な加工(剥き身処理)施設(木枠付土坑など)
       の遺構が多数発見され、その廃棄した貝殻による巨大な貝塚が発掘さ
       れた。殻長3cm以下のハマグリは採取対象外とされ製品のサイズ基準
       が設けられると同時に資源の保存が図られていた。

 ② 塩
   [生産場所] 茨城県 広畑貝塚、茨城県 法堂遺跡
   [生産品目] 土器製塩(土器を使って海水を煮沸し粗塩の生産と二次焼成による
       固形塩の製造)
   [補足説明] 生産された塩は土器に入れられ北関東各地に送られた。

 ③ 磨製石斧
   [生産場所] 富山県境A遺跡
   [生産品目] 蛇紋岩性磨製石斧
   [補足説明] 磨製石斧の完成品1031点・未製品35,812点が発見された、富山県
       産の磨製石斧は統一的な形状で生産され日本各地で使われた。

 ④ アスファルト
   [産出場所] 秋田県昭和町豊川槻木、秋田県能代駒形、新潟県新潟市新津蒲ヶ沢
       大入、サハリン(ヌトボ?)
   [生産品目] 天然アスファルト
   [補足説明] アスファルトの主用途は石鏃(やじり)・銛(もり)の装着材で他に土器
       の補修や骨角製釣針の紐巻きなどに使われた。秋田県産などのアスフ
       ァルトは北海道を含む東日本各地に流通し、流通経路途中ではアスフ
       ァルトの分割工房遺跡も発見されている。アスファルトの産地特定が
       化学分析により可能となっている。皮袋や土器に入れて運搬・保管さ
       れた。

 ⑤ 漆器
   [生産場所] 東京都東村山市 下宅部遺跡
   [生産品目] 漆塗り木製品(飾り弓、杓子、匙、皿、櫛、ヘアピンなど)、樹皮製
       品(容器など)
   [補足説明] 漆は塗装だけではなく土器などの補修にも使われた。

 ⑥ 黒曜石
   [産出場所] 長野県長和町 鷹山遺跡群糞峠、長野県下諏訪町 星
ヶ塔遺跡
   [生産品目] 黒曜石原石
   [補足説明] 縄文時代の黒曜石の原産地は100カ所以上確認されているが、良質の
       黒曜石は、北海道の白滝・十勝、長野県の霧ヶ峰周辺、九州の腰岳な
       どに限られる。
        鷹山遺跡群糞峠・星
ヶ塔遺跡の黒曜石鉱山からは縄文時代全期にわた
       って膨大な量の黒曜石が採掘されている。この黒曜石は関東・東海地
       方などに幾つかの流通ルートを経由して供給された。また、産出地で
       の採取・採掘の後、周辺のムラでの石器製作、取捨選択された剥離片
       の移送、など一連のサプライチェーンが組織化されていた。
        黒曜石の有力産地として伊豆諸島の神津島があり、旧石器時代から縄
       文時代を通じて海路で伊豆や南関東に運び出されていた。
九州産黒曜
       石は琉球列島にも海送され、一部はトカラ海峡を越えて900km離れた
       慶良間諸島や朝鮮半島南部(東三洞貝塚)にも送られていた。また、北
       海道産(十勝産)黒曜石は津軽海峡をわたって青森県にも供給されてい
       た。

 ⑦ 硬玉(ヒスイ輝石)
  [硬玉ヒスイ製品の分布地域](中国・四国を除く)北海道から九州までの全般
  [採取場所] 新潟県 糸魚川市周辺の河川流域、海岸
  [産出場所] 青海川上流、小滝川上流
  [玉造りを行っていた遺跡] 新潟県・富山県(細池遺跡、長者ヶ原遺跡、三ツ又遺
       跡、森下遺跡、大角地遺跡、寺池遺跡、境A遺跡、浜山遺跡、広野新
       遺跡)
  [補足説明] 硬玉は装飾品(威信財、奢侈品)として穿孔(細孔の穴あけ)の高度な
       技術を使って加工された。

 ⑧ 上述の製品以外にも、専業的な作業員が大量生産を行っていたとみられる製品
  は、打製石斧、土器・土製品、石棒、木製容器、貝製装身具、サヌカイト(讃岐
  岩)、ベンガラ(赤色顔料)、琥珀など多様であった。遺物として残ることが少な
  いため不明な部分があるが、布や食料など特産品として生産されたモノもあった
  はずである。

(3) 縄文時代の交易
 縄文人はほぼ日本列島全域に居住域を広げており人種的にもほぼ均一化が図られていたことより、縄文言語ともいうべき原日本語・原アイヌ語が流布しており、他地域のムラとのコミュニケーションは十分に可能な状況にあったと思われる。
 
 運搬の方法についていえば、人が物を背負って歩いて運ぶ、これが縄文時代の一般的なモノの移送方法であった。また、舟に人と物を積んで河川や沿海を移動することも決して珍しいことではなかった。
 しかし、人や舟が何日もかけて遠隔地に物の運搬を行うことは決して誰にでも簡単にできることではなかったはずである。
 片手間に産地情報を入手し、片手間に舟を作り、片手間に航海術を身につけ、片手間に神津島や霧ヶ峰山麓で黒曜石を採掘し、片手間に重い荷物を長い道のりを踏破して、自分のムラまで運ぶ、ということは極めて困難なことでとても片手間でできることではない。
 舟を操って海上航海を行う人たちもいたはずであり、獣道に近い自然道を見極めながら目的地に到達する道案内人や経験者も必要となる。道中の食料の調達も簡単なことではなかろう。動ける時期も気候の許す期間に限られよう。
 このように多くの専業製作者の労働力を経て生産されたモノを、更に専業の運搬者や交易者やその他の関係者が多大な労力と時間と危険をも費やして他の地域に運び、また、他の場所(やムラ)で産出・生産された原材料や産品を自分のムラに運び込むことを行っていた。
 当然のことながら、モノの流れが定期的に行われるようになると、産品の輸送ルートの途中での中継地(ハブ拠点)や交換・交易を行う場所、すなわち交易市場の機能をもった場所・ムラもできてきたはずである。

(4) 縄文時代の貨幣
 自分のムラのモノを他のムラに運んで自分のムラに必要なモノに交換する。これが何回も繰り返されるうちに、自然と等価交換のルールが決まってくる。例えば、磨製石斧10丁に対して塩2壺、というような交換レートである。
 しかしながらこのような交換を行う場所には、他のモノも自然と集まってくるようになり、複数のモノについて等価交換のルールが必要となってくる。このような複数種類のモノの交換が何回も行われるようになると、自然な形でいわゆる自然貨幣が必要にせまられて誕生してくる。この自然貨幣は物品貨幣とも原始貨幣とも呼ばれることがあるが、通貨に準ずる条件を満たすモノであり、このモノを基準としてさまざまなモノとの等価交換ルール(レート)が決まってくる。
 縄文時代には通貨そのものは無い時代であり、モノの交換に伴う不便を除くために、準通貨としての自然貨幣が幾つか誕生した、というのが私の見解である。誤解をさけるために確認しておきたいが、全ての交換と交易がこの自然貨幣を使ってなされたということではなく、あくまで部分的に必要がある場合のみに使われた、ということであろう。
 ただ、このような自然貨幣が誕生すると、実際にはこの自然貨幣が無い場合でも、モノの価値を自然貨幣で幾つ分であると言うことができるようになり、モノの価値が容易に比較できるようになる大きなメリットが生じてくる。

 自然貨幣となるモノはどのような条件が整っている必要があるのであろうか。その条件はおそらく次の五つであろうと思う。

 ⓐ ほぼ同等の品質(規格・価値)のものが十分に生産されていること(例外的に、
  貴重品の場合は生産量が限られていても自然貨幣として使われる可能性があ
  る)。
 ⓑ 移動時に携帯・運搬しやすい重さ、大きさであること。
 ⓒ 多くの人が欲しがるものであること(いつでも他のモノに替えられること)。
 ⓓ 保管・保存に適していること。
 ⓔ 誰でも簡単には生産できるものではないこと。

 縄文時代においては、自然貨幣はこの自然貨幣(モノ)の流通した特定の地域においてのみ通用したもので、決して日本全域で共通に通用していたものではないことを念頭に置いてほしいが、それでもモノによってはかなり広範囲(現在でいえば、数県から十数県にまたがる地域)に移出・流通していたのも事実であり、準通貨としての存在価値はあったと考えられる。

 上記の5条件が備わった自然貨幣とはどのようなモノであったのであろうか。
 これが本抄を書いた目的であり結論でもあるが、私は次の製品が縄文時代の自然貨幣となっていたのではないかと考えている。

  ① (定角式)磨製石斧(柄を付けていない石部)
  ② 良質黒曜石製鏃(やじり)(2cm長前後)
  ③ 硬玉(ヒスイ)大珠と小珠

 これらの他にも自然貨幣であった可能性があるのは、小型板状土偶、黒曜石(原石)、オオツタノハのような貝装飾加工品などがあるが、5条件を十分には満たしていないと思われる部分があり参考として止めておきたい。

 縄文時代には、ムラに帰属する(製作)専業者が特産品を作り、それをムラに帰属する(流通)専業者が別のムラとの交易を行っていた。
 その交易には少なからず準貨幣としての自然貨幣が使われていた。
 これが私の想定する縄文経済の姿であり、全ての縄文人が全て同じように自給自足の日常活動を行っていたという停滞したイメージの社会ではなく、クニ作りが始まる次の弥生時代につながるダイナミックなムラの動きが始まったのが縄文時代であると述べて、本抄を終えたい。

[参考文献など]
 KOzのエッセイ#031「日本列島の形成」
 KOzのエッセイ#036「日本人の源流」
 KOzのエッセイ#048「日本語の源流」

「縄文時代の考古学6 ものづくりー道具製作の技術と組織」小杉康 他編(同成社)2007年
「縄文時代ガイドブック」勅使河原彰著(新泉社)2013年
「日本列島石器時代史への挑戦」安蒜政雄・勅使河原彰著(新日本出版社)2011年
「ハマ貝塚と縄文社会」阿部芳郎編 [明治大学日本史文化研究所](雄山閣)2014年8月
「遺跡・遺物の語りを探る」小林達雄・赤坂憲雄編(玉川大学出版部)2014年3月
「縄文時代の商人たち」小山修三・岡田康博共著(洋泉社)2000年
「昨日までの世界 上下」Jared Diamond著(日本経済新聞社)2013年2月
 
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=貨幣&oldid=52097339
 http://ja.wikipedia.org/wiki/日本列島の旧石器時代
 http://ja.wikipedia.org/wiki/石鏃
他。