066_平板土偶展示
縄文の謎 (1) 土偶


 土偶は縄文時代を代表的する美術品であり、主に東日本から2万体を超える土偶が出土している。
 ちなみに縄文時代とは、日本特有の時代区分ともいえるが、北海道から琉球列島まで一部は朝鮮半島南部にまで及ぶ南北東西に広がった文化圏を持ち、このため場所によって旧石器時代から土器の利用開始に移行する時期にもずれがあり、また、土器使用開始草創期を石器時代の晩期とするか縄文時代の開始とするかによっても異論があり、更に、主に大陸からの移入により人種的にも文化的にも大きな変化をもたらした弥生時代への移行時期にも地域時差があることより、一概には言えないが大要14,000BC頃(~9,500BC)から1,000BC(~700BC)頃までの約1万年の期間を言う。

 土偶とは人の形を粘土で作り焼成したものであるが、十字形や逆三角形の板状のものもありその形状は多種多様にわたっている。
 また、土偶ではないが、動物などを象形したものや、装身具、そして用途の不明なものを含むさまざまな形状の小物にいたるまで、多数の土製品も遺物として発掘されている。
 縄文時代に制作された土製品は、土器、土偶、その他の土製品、と大別することができよう。この中で土器については、時期・場所により多様なデザインの縄文土器が制作されたが、この使用目的は明確であり、主に食物の調理(蒸す、煮る、焼くなど)と貯蔵に使われていた。
 しかしながら土偶についてはどのように使われたのか、またその制作目的については不明なことが多く、いろいろな推測がなされているが未だに確たることはわかっていない。

 土偶とは何か? 何のために作られたのか?
 これが土偶に関わる最大の謎となっている。
 これが本抄のテーマでもあるが、土偶自体が多種多様であり、その目的・用途もおそらくはひとつではなくさまざまであると予想されることより、本抄では最も土偶らしい土偶ともいえる代表的土偶8体(国宝指定の5体と重要文化財3体)に焦点を合わせて、土偶の謎に迫りたい。

 この8体の代表的土偶についてまずその概要を紹介したい。

①「縄文のビーナス」(国宝)
  [出土場所] 長野県茅野市 棚畑遺跡
  [制作時期] 縄文時代中期(3,000BC~2,000BC)
  [サイズ] 高さ27cm 重さ2.14kg
  [特徴] 中実土偶、完全な形で深さ18.5cmの浅い穴から横臥状態で出土した。
  [性別] 女性像

①縄文のビーナス200_1①縄文のビーナス200_2①縄文のビーナス200_3


②「縄文の女神」(国宝)
  [出土場所] 山形県舟形町 西ノ前遺跡
  [制作時期] 縄文時代中期(2,500BC頃)
  [サイズ] 高さ45cm 重さ3.155kg
  [特徴] 5部分に割れた状態で出土、顔面の表現はない。
  [性別] 女性像

②縄文の女神200_1②縄文の女神200_2


③「仮面の女神」(国宝)
  [出土場所] 長野県茅野市 中ッ原遺跡
  [制作時期] 縄文時代後期(2,000BC頃)
  [サイズ] 高さ34cm 重さ2.7kg
  [特徴] 逆三角形の仮面を着装、中空土偶、土葬墓に副葬されていた。右足が
     付根で壊され、破片(5片)が体内・体外に分散した状態で出土した。
  [性別] 女性像

200912dogu10③仮面の女神200_3③仮面の女神200_4


④「合掌土偶」(国宝)
  [出土場所] 青森県八戸市 風張1遺跡
  [制作時期] 縄文時代後期(1,500BC頃)
  [サイズ] 高さ19.8cm
  [特徴] 両膝を立てた坐像、縦穴住居跡の奥北側壁際から出土、両腿付け根
     や腕が割れておりアスファルトで修復がなされていた、顔面などに
     赤色顔料が塗られていた。
  [性別] 女性像?

④合掌土偶200_1④合掌土偶200_2


⑤「中空土偶」(国宝)
  [出土場所] 北海道函館市 著保内野(ちょぼないの)遺跡
  [制作時期] 縄文時代後期(1,500BC頃)
  [サイズ] 高さ41.5cm 重さ1.745kg
  [特徴] 中空土偶では最大。
  [性別] 男性像?

200912dogu03⑤中空土偶200_2


⑥「ハート形土偶」(重要文化財)
  [出土場所] 群馬県吾妻軍 郷原遺跡
  [制作時期] 縄文時代後期(2,000BC~1,000BC)
  [サイズ] 高さ30.5cm
  [特徴] 横向きで出土。
  [性別] 女性像?

200912dogu09


⑦「遮光器土偶」(重要文化財)
  [出土場所] 青森県つがる市 亀ヶ岡遺跡
  [制作時期] 縄文時代晩期(1,000BC~400BC)
  [サイズ] 高さ34.2cm
  [特徴] 中空土偶、左足が欠損、瞼を閉じた大きな目が特徴。
  [性別] 女性像?

⑦遮光器土偶200_1⑦遮光器土偶200_4⑦遮光器土偶200_2


⑧「みみずく土偶」(重要文化財)
  [出土場所] 埼玉県さいたま市 真福寺貝塚
  [制作時期] 縄文時代後期(2,000BC~1,000BC)
  [サイズ] 高さ20cm
  [特徴] 盛り上がった髪型模様と丸い目と口が特徴。
  [性別] 女性像

ⓐみみずく土偶200


(比較参考土製品)
 「
猪形土製品」
  [出土場所]
青森県 十腰内2遺跡
  [制作時期] 縄文時代後期
  [サイズ] 高さ9.4cm 全長16.1cm 重さ525g
  [特徴] 3軒の住居跡に分割された状態で出土、胴体に紋様がある。

ⓑ猪形土製品200



 以上の8体の土偶に1体のイノシシ土製品(人形ではないため普通は土偶とは言わない)を参考のために追加紹介した。なぜ、このイノシシ土製品をあえて加えたかについて下記二点補足説明しておきたい。

 (1)土偶は体の一部が欠損もしくは破損した状態で見つかることが多いため、病気の箇所の治癒を祈るための身代わりとなっている、などとの説が流布しているので、単純に土偶の目的をこのように決めつけることは実態を見失うことにもなることより、わかりやすい実例としてイノシシの土製品を参照した。
 このイノシシ土製品も足などがばらばらに分割された状態で出土している。縄文時代にはイノシシの家畜化も図られたと思われるが、イノシシは野生であろうと家畜であろうと食用に供され、その骨はバラバラになって他の廃棄物と一緒に捨て場から出土している。従って食用であるイノシシに対して、イノシシ土製品の例えば足の治療を祈って足を折って埋納するということは考えられない。
 土偶の体の一部をあえて破壊して埋納する理由を、その箇所の治癒祈願と決めつけることはいかにも早計であると思える。
 事実、上に紹介した代表的な土偶は完全な形で見つかったものもあり、分割されて見つかったものも体全体が分割されている場合も多いことより、特定の一部を敢えて破壊したと考えるよりは、土偶の構造上の特性や強度の限界から、また使用中止時の原状を長時間(数日もしくは数百年)維持することも困難な場合も多かったはずであり、使用中もしくは埋納後・廃棄後に破損したことも多かったのではと考える方が自然ではないかと考える次第。
 特に、仮面の女神③の右足付根の破片の位置(体内、右足部分内部、など本体の内外)と右足が半回転した状態で出土したということから、意図的に右足を破壊してその上で本体といっしょに埋納した証拠である、と断定されているが、これとて完全な形で横臥の状態で埋納された後、土の上から踏みつけられその押圧で右足が折れ、破片がその切断部の両側の体内空洞に飛散し右足本体も回転してずれ落ちた、という見方も十分可能である、と私は思っている。しっかりした容器の中に入れて埋納するのであれば話は別であるが、直接地中に埋納する場合、土偶が押圧で破損されないように埋める(もしくは埋もれる)ことの方が困難であると思える。
 また、ほとんどの土偶は立体土偶も平板土偶も全体がばらばらになって、まとまって廃棄された状態で出土することが多く、必ずしも特定の一部のみを意図的に破壊したという状態ではないことも強調しておきたい。

 (2)イノシシ土製品を比較のために参照した理由の第2点目は、その模様にある。
 多くの土偶には多様な紋様が描かれている場合が多いが、これらは衣服・装飾品の表示の場合もあろうし、中には入れ墨を描いた場合もあるかもしれない。しかしながら、土偶の体にこのような紋様が描かれていたとしても、それがかならずしも衣服や入れ墨であるとは限らず無傷の裸の皮膚であるかもしれない、ということをイノシシの土製品に紋様が入っていることで確認しておくことにした。すなわち、イノシシは衣服も装飾品も身にまとうことはなく、ましてや入れ墨を入れることもないが、土製品には紋様が付けられている。
 非常に美的感覚に優れた縄文人が製作したのが土偶であり、全ての縄文製品(土器や土製品なども含めて)には共通して洗練された美しさと芸術的デフォルメが見受けられる。

 さて、説明が迂回したが、本題に戻ることとする。
 本抄で紹介した国宝・重要文化財である8体の土偶はいわゆる立体土偶(立像)であり(みみずく土偶⑧は立体土偶と平板土偶の中間に位置するかもしれない)、全てが全く異なったデザインでありそれぞれ非常に際立ったユニークな特徴を備えている。
 これら全ての土偶の内、目を閉じている遮光器土偶⑦以外の立体土偶①~⑥は全て斜め上方に視線を向けているように見える。みみずく土偶⑧も自立が難しいことより壁に斜めに掛け置きして安置することを想定すると、やはり視線は斜め上方に向く。
 これらの立体土偶に対峙する人に視線を合わせるのではなく、その上方の虚空に焦点を
合わせるかのように斜め上方を見つめているように思える。
 これは何を意味するのであろうか?

 私には、これらの土偶が虚空もしくは遠くに向かって「祈り」を伝えているように思える。
 縄文のビーナス①のように素朴な祈りの姿と思えるものもあれば、仮面の女神③のように強烈な祈りの姿と見えるものもある。また、縄文の女神②、合掌土偶④、中空土偶⑤、ハート形土偶⑥、みみずく土偶⑧のように強く渇仰する祈りを感ずる姿もある。
 大きな目の輪郭に強調された上下のまぶたを閉じた遮光器土偶⑦には、目を閉じ強く思念する祈りの姿を感ずる。
 土偶の前でひざまついた人・人々、そのほとんどはおそらく女性、の祈りを受け留め、それを虚空そして遠くの世界にその祈りを届けようとする姿がこれらの土偶に込められているように私には思えてならない。

 土偶とは、祈りの姿の擬人化、であると私には思える。
 生涯にわたって何回もの出産を求められた女性達が、厳しい生活環境の中でさまざまな辛さや悩みを乗り越え、子孫繁栄と健康を願っていく、その祈りの対象が正にこれらの土偶であった、と私には感じられる。

 本抄で取り上げた土偶8体は、いわば土偶のなかの土偶であり特別な一品であったと思える。一般的にはもっと小形であまり精巧ではない土偶も数多くあったはずである。それらのほどんどは住居内に安置するだけではなく、身につけていたものも多かったのではないかと思える。特に縄文時代の前期は短時間の滞在で食料を求めて場所を移動することが多かった生活であり、大きな土偶は移動するのに不向きであり、小さな携帯可能な土偶(平板土偶)が普及していた。中期から後期になると定住の期間も長くなり、それに伴って住居(竪穴式)も堅固で長期間使用可能なものに変化し、土偶も屋内安置型である立体土偶が増えたのではないかと思われる。立体土偶もこのような生活形態の変化を反映しているはずである。
 また、土偶は(特に女性にとり信仰上)非常に大事なものであったことより、たとえ破損したとしてもできるかぎり修復を加え、最後に破棄する場合でも一族の中心地であったムラに立ち寄る機会をとらえて新しい土偶を入手し、使えなくなった土偶は分割してムラの特定の廃棄場所に捨てたのではと考えられる。
 土偶は、一家族か二・三家族での孤立生活が基本であった縄文の時代にあっては、たとえ野火焼きであったとしても土器と同様に一家族で簡単に制作できるものではなく、やはり数~数十家族が集まっていたムラの中で制作されたものであり、ムラの文化がその制作とデザインに凝縮していると思える。

 もし、以上私見ではあるが私の縄文土偶についての状況説明が違和感のない形で感じ受けとめていただけるのであれば、それはおそらく私の感覚と推察が実態とはそれほど大きくはかけ離れてはいない証左ではないか思う次第である。
 ただ、長い時の変化の中で残された遺跡と遺物とその報告書・資料を頼りに遠い過去の生活を推量せざるを得ないわけであり、どうしても誤差は避けられず、それはまた考古学自体の限界でもあり、素人である私にとっては当然のこととご容赦いただきたいと念願する次第。

[参考文献など]
「縄文時代ガイドブック」勅使河原彰著(新泉社)2013年
「縄文土器ガイドブック」三上徹也著(新泉社)2014年
「はじめての土偶」武藤康弘監修(世界文化社)2014年
「国宝土偶縄文ビーナスの誕生」鵜飼幸雄著(新泉社)2010年
「日本列島石器時代史への挑戦」安蒜政雄・勅使河原彰著(新日本出版社)2011年
「遮光器土偶と縄文社会」金子昭彦著 深高社(2001年)
「日本国宝展」東京国立博物館編 読売新聞社・NHK発行(2014年10月)

http://www.tnm.jp/ 東京国立博物館
http://www.city.chino.lg.jp/www/contents/ 茅野市
http://bunka.nii.ac.jp/Index.do 文化遺跡オンライン
http://megami.town.funagata.yamagata.jp 舟形町教育委員会
他。