054_アテナイの学堂
西洋哲学の変遷と限界


 自分とは?、万物の根源は?、無限とは?、等々、人と自然と宇宙などの本質に関わる疑問に対して答えを得ようとする努力が過去数千年にわたってなされてきた。
 ヒトが道具を使い始め言葉が発達し始めて文化らしきものが芽生えた頃には、どの民族においても、自分たちの祖先はどのように誕生したのか、そして自分たちの生活を脅かすさまざまな自然の驚異はなぜ起きるのかなどについて語り始め、それが神話や物語として語り継がれていた時代があったはずである。この時代には文字がなかったために伝承でしか子孫に伝える方法がなかったのであろうが、このような神話・伝承の時代も含めるとすればヒトは過去数千年よりも更に前の時代から、目の前にあることの背景に存在する本質的な物事に考えをめぐらしてきたともいえる。

 世界思想史・哲学史の中で大きな潮流の発信源のひとつともなった西洋(ヨーロッパ地域)では、古代ギリシアにおける哲学の発祥から、アレキサンダー大王によるエジプト・オリエントの統合を機に誕生したヘレニズム哲学、キリスト教神学の規制下における哲学の停滞、ギリシア回帰のルネッサンス運動による自然科学の進展とキリスト教との葛藤、デカルトによる新たな哲学の創始、更に、経験主義と啓蒙主義の対立の時代を経て、カントによる感性と理性の二面性を認めた哲学へ、更に、ロマン主義哲学を統一したヘーゲル、そしてその後もキリスト教教義と史的唯物論との対立と融合を経て、現在へとさまざまな哲学・思想の分化と発展と変容がなされてきている。

 これらの西洋哲学史の変遷を全て詳細に追うのは本抄の主旨ではないことより、これらの全容を踏まえた上で、西洋哲学の発展と変遷と衰退の転換期に起きたエポックに焦点を合わせることにより3000年近くにわたる西洋哲学史の潮流を把握することとしたい。それを鳥瞰図として眺めることにより、西洋哲学の試行錯誤の姿と、そしてその限界が見えてくるのではないかと思う。いずれにしても大きいテーマであることより、本抄はどうしても長文になってしまうが、西洋哲学史の全容を知りたいと思う方にとっては、本抄は極めて短い案内書になるのではないかと思っている。

(1)西洋哲学の発祥期(BC6世紀~BC4世紀)
 紀元前600年頃から500年頃にかけて、後にギリシア哲学と総称されるが、ギリシア地方で、さまざまな哲学者が多様な思考・思想を唱え、それが文字として記録に残され始めた。この当時の哲学は自然学、数学、宗教との間に明確な境界線を置くことはできず、敢えて言えば自然哲学ともいうべきものであったが、これが西洋哲学の源流とされている。

 ミレトスのターレス(Thales BC624年~BC546年頃)は、万物の根源は水であると説き、ピラミッドの高さを測り、日食の予測も行なった。アナクシマンドロス(Anaximandros BC610年頃~BC546年頃)は、万物の根源は不生不滅の無限の存在であるアペイロンであると説いた。アナクシメネス(Anaximenes BC585年頃~BC525年頃)は、万物の根源は空気であると考えた。
 パルメニデス(Parmenides BC500年頃~没年不明)は、無から有が生じることはないと主張し真の意味での変化というものはないとして、感性よりも理性に信を置いた。ヘラクレイトス(Herakleitos BC540年頃~BC480年頃)は、万物は流転しているものと考え、一方でその背後に不変のロゴス(変化の背景にある不変なもの)が存在するとし、根源的な一元(アルケー・火)から多様な表面的なものが生ずるという考えを初めて説いたとされる。アナクサゴラス(Anaxagoras BC500年頃~BC428年頃)は、世界のあらゆる物質は無数・多種の微小なスペルマタ(種子)から構成されているとし、全ての天体も地球と同じ物質でできていると主張した。エンペドクレス(Empedocles BC490年頃~BC430年頃)は、火・水・土・空気の四元素説を唱えた。デモクリトス(Democritus BC460年頃~BC370年頃)は、卓越した思考法により原子論を確立した。古代ギリシアにおける唯物論の完成ともいえる。

 以上のような哲学と科学の出発点ともなる諸論を経て登場したのが、ソクラテス(Socrates BC470年頃~BC399年)、プラトン(Platon BC427年~BC347年)、アリストテレス(Aristoteles BC384年~BC322年)のそれぞれ師弟関係を持つ三人である。
 ソクラテスは「無知の知」を前提に死後は不可知であるとの立場と採った。その弟子であったプラトンは、弁証法を用いて、真の実在としての「イデア」が生成変化する物質界の背後にあるとし、人は善のイデアを目指すべきであるという倫理観を作り上げた。その弟子であるアリストテレスは、諸現象は質料因・作用因・形相因・目的因の四原因(アイティア)に起因するとし、人の営みの最上の目的は最高善(卓越した幸福)であるとする倫理学と三段論法を基本とする論理学を体系化した。

 この三人は西洋哲学の礎を築き、哲学のみならず自然科学、数学、論理学などを含めて「万学の祖」とも呼ばれている。また、キリスト教神学やイスラム教哲学、更には近代哲学や論理学にも多大な影響を与えている。

 西洋哲学の源流となったギリシア哲学はさまざまに意見・視点を異にする哲学者達が競い合って哲学の形を形成していったが、それらの思想の支流が合流しながら到達した所は何だったのであろうか。私は、ギリシア哲学が到達した弁証真理(弁証法により到った真理)は、次の3点に凝縮できるのではないかと思っている。

 ① 因果律(自然界の諸現象は何らかの原因がありその結果として起こっている、
   また、そのような原因と結果が必ずあるというのがこの世界の普遍的な様相で
   ある。)
 ② 元素論(この世界を形作っているのは微小な元素である。)
 ③ 神々の所為(諸現象の背後にある存在には、神々の所為が関わっている)


 このギリシア哲学が残したこの三つの弁証真理は、その後現在に到るまで西洋哲学に深く影響を与えてきている。

(2)中世の哲学(5世紀~15世紀)
 395年にローマ帝国が東西に分裂し、476年に西ローマ帝国は滅んだ。ローマ帝国分裂の直前(380年)にキリスト教が国教化され、西洋史における古代とルネッサンスの狭間として千年以上続く中世の始まりとなった。

 古代ローマ帝国は時代を経て大きく三つの文化圏に解体していった。
 (a) 西ヨーロッパは、ローマを中心とするラテン語のキリスト教文化圏。
 (b) 東ヨーロッパは、コンスタンティンノープル(後のビザンティウム)を中心とする
   ギリシア語のキリスト教文化圏(東ローマ帝国は西ヨーロッパのローマ・
   カトリック中世にほぼ相当する15世紀の半ばまで存続し、この時期を
   ビザンチン中世とも呼ぶ)。
 (c) 中東と北アフリカは、アラビア語のイスラム文化圏。


 ギリシア哲学は、西ヨーロッパでは西方教会(ローマ・カトリック教会)、東ヨーロッパでは東方教会(正教会など)による異教排他政策の下でほぼ消滅したが、逆にイスラム文化圏では温存され、早い時期にアラビア語に翻訳され、イスラム教の教理にギリシア哲学の取り込みもなされていた。
 このような状況下、西ヨーロッパへのギリシア哲学の再移入は、中世初期においては東ヨーロッパのギリシア語圏から、後期においてはアラブ・イスラム語圏からなされた。

 キリスト教を国教とする宗教・思想統一化の動きは4世紀に入りアルメニア王国、アクスム王国(エピオピア)、そしてローマ帝国と続いた。415年にはキリスト司祭の煽動によりキリスト教暴徒が当時世界最大の図書館であったアレキサンドリア図書館を略奪破壊する事件が発生した。529年にはプラトンがアテネに開設したアカデミアが非キリスト教的という理由で閉鎖させられ、またこの年に最初の大修道会であるベネディクト会が設立された。以降ヨーロッパ域内では学問や思索を行なう場所はキリスト教修道院に限られることとなった。
 中世ヨーロッパではキリスト教が唯一の支配的な世界観となったことから、中世文化はキリスト教単一文化と言われている。

 後に西方教会と東方教会の両方において聖人と称されたヒッポのアウグスティヌス(Aurelius Augustinus 354年~430年)は、中世の初期、プラトン哲学(新プラトン主義)とキリスト教の融合を試みた。プラトン哲学のキリスト教化である。前述のギリシア哲学の成果である弁証真理③をキリスト教神学に転用移入したことになる。
 アウグスティヌスは、プラトンの唱えたイデアこそ神の作品であり、そこに近づくのは信仰である、とした。また、人間の意志を非常に無力なものであるとし、神の恩寵なしには善をなし得ないと主張した。
 アウグスティヌスはカトリック教会において「最大の教師」とよばれ、その思想は神学の中で重要視されている。のみならず後述のアクイナスや宗教改革以降のキリスト教にも大きな影響を与え、西洋思想全体にも影響を及ぼしたと言われている。

 中世のキリスト教会は自由思考を尊重するギリシア哲学を恐れ排除していたが、十字軍をきっかけにアラブ世界との交流が広がることにより、アラブ・イスラム教世界からギリシア哲学の伝統が非常なる勢いをもってヨーロッパ・キリスト教世界に流入してきた。度重なる禁止令にもかかわらず、めざましい商業活動の発展の流れに乗り、これを止めることができなくなっていた。また、15世紀末までイスラム文化圏となっていたスペインでは、アラビア語に翻訳され温存されていたギリシア古典遺産が多数ラテン語に翻訳され、医学書などの知識がここからも西ヨーロッパに流れ込んでいた。

 このような時代背景の下、キリスト教の代表的神学者であり護教家でもあったトマス・アクイナス(Thomas Aquinas 1225年頃~1274年)は、アリストテレス哲学やユダヤ思想との理論対決も迫られる立場にあった。
 アクイナスはアリストテレスの四原因を拡張解釈してキリスト教神学との融合を試みた。
 アリストテレスは、四原因の骨格を為す質料因(構成物)と形相因(実体・本質)について、これは質量を持つ自然界の存在についてのみに言えることであって、質量を持たない超自然の存在まで拡張した場合には可能態(潜在的可能性)から現実態(生成されたもの)への生成流転の変化としてとらえることができるとし、更に質料(質量)を持たない純粋形相としての最高現実を神(不動の動者)と呼んだ。
 アクイナスにとっては、神は万物の根源であり純粋形相ではありえなかった。そこで、「形相 - 質料」と「現実態 - 可能態」の考えを受入れ、「形相 - 質料」を「存在 - 本質」に置き換えた。存在は現実態であり本質は可能態であるとし、神は自ら存在する存在そのものであり純粋現実態であるとした。
 アクイナスの神論は、アウグスティヌスと同様ギリシア哲学の弁証真理③を利用した論法であり、その過程でギリシアの人間的自然神(神々)からキリスト教の唯一神に置き換えがなされている。
 また、人間は理性によって神の存在を認識できるが、有限である人間は無限である神の本質を認識ことはできないことより、理性による認識には限界があるとした。このゆえに人は死後初めて神の本質を認識し真の幸福が得られるとした。
 アクイナスの神中心の存在論は、信仰と理性は並立しうるとする主張と伴なって、キリスト教神学に大きな影響を残すこととなった。

 総括して眺めると、中世における哲学は次のような状況にあったと言えるのではないか。

 ① 哲学はキリスト教神学に隷属する位置付けとなった。
 ② キリスト教は真理であり、無心に信ずるか理性を以てその真理に近づくか、
   が最大の論点であった。
 ③ 父なる神と子(イエス・キリスト/神の言・ロゴス)と聖霊の位格については、
   西方教会・東方教会の大半の教派で三位一体であるとした。
 ④ 十字軍に象徴される武力によるキリスト教布教の教義上の合法化は、中世以降
   もキリスト教文化史の矛盾点として残された。


 中世は哲学の進歩は停滞し、キリスト教神学の進歩が哲学の進歩であったとしか言わざるをえない時代であった。

(3)ルネッサンスの哲学(15世紀~17世紀)
 14世紀末に北イタリアから古代ローマ・ギリシアの芸術・文化への回帰を目指す新たな文化運動が始まり、中世のキリスト教による束縛とネガティブな人間観を拒否して、ポジティブな人間主義(ヒューマニズム)の復興を標榜する新文化運動となってヨーロッパ全域に波及していった。このような古典回帰の動きは14世紀以前にも散発的に起きていたが、ヨーロッパ全域に広がることはなかった。

 芸術分野の復興運動を後押しするように、自然科学分野における新たな発見と新技術の発明がなされ、ルネッサンスは全文化にわたっての大きな潮流となっていった。
 中国の発明品である方位磁石・黒色火薬・活字印刷がイスラム圏を経てヨーロッパに伝えられ、そこで新たな改良と応用がなされ普及が始まった。金属活字を用いた活版印刷機の発明が大量出版を可能にし新思想の普及に寄与した。羅針盤の発明により遠洋航海が促進され、火縄銃の発明によりアフリカ・アジア・アメリカ大陸への海洋進出拡大が有利に進められることとなった。これらの発明によりヨーロッパ人の活動範囲は大幅に拡大し、商業・貿易が盛んになり経済基盤も強化された。
 ルネッサンス期を代表する芸術家であり科学者であるレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci 1452年~1519年)は、人間のみならず動物の精緻な解剖図、モナ・リザなど高度な写実技術を用いた絵画、都市・建築・武器・楽器など様々な工学設計、動植物・岩石など自然科学の探求、など実に多彩な能力を発揮した天才であった。
 16世紀末の発明とされる望遠鏡も航海にはなくてはならない利器となり、また天文学の発展にも大きく貢献した。解剖学の発達は人間そのものの見方を変える契機ともなり、医学・美術・芸術・文学、更には建築の分野にも複合相乗的な影響を与えることとなった。

 また、自然科学の発展がキリスト教神学と哲学にも大きな影響を及ぼし、それまで神学に隷属していた哲学が独自の展開を始めた。
 また、自然科学の発展はキリスト教会とアリストテレス哲学の権威に対する挑戦でもあったため、カトリック教会からの激しい抵抗があった。
 ジョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno 1548年~1600年)は、ドミニコ会の修道士であったが、ニコラウス・コペルニクス(Nicolaus Copernicus 1473年~1543年)の地動説を擁護し、宇宙が無限であると主張したことにより異端であるとの判決を受けて火刑に処せられた。
 ヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler 1571年~1630年)は、惑星の精密な観測結果に基づき天体の運行に関するケプラーの法則を発見し、惑星は大陽の周りを楕円運動する天体である、と発表した。これはコペルニクスの主張した惑星の円軌道運動を更に進化させた地動説となった。
 天文学者であり哲学者でもあったガリレオ・カリレイ(Galileo Galilei 1564年~1642年)は、ピサの斜塔からの重さの異なる球の落下実験により同時に着地することを実証し、アリストテレス以来の重い物は早く落ちるという常識をくつがえした。また望遠鏡を使っての天体観測を行い、月面の凹凸や木星の衛星を発見し、論文「星界の使者(Sidereus Nuncius)」として発表した。この論文はキリスト教神学の主張する天動説を否定する内容であったため、ドミニコ会との論争となり、ローマ教皇庁による宗教裁判が開かれ、ガリレオは異端とされ有罪とされた。
 尚、ガリレオの死去350年後の1992年になって、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世がこの判決は誤りであったことを認めた。尚、ローマ・カトリック教会が地動説を公式に認めたのは21世紀に入った2009年のことであった。キリスト教会がいかに科学の進歩を敵対視し、科学の発見の後追いで神学を修正してきたかが分かる事例である。
 なぜルネッサンスが起こり、全ヨーロッパに普遍する大文化運動にまで発展したかが、ここにその背景と遠因とを見ることができる。

 このような科学者・哲学者などとキリスト教会との葛藤を経ながらも、旧来のキリスト教会の神と聖書更には教会そのものに対しても、見直しを求める機運が高まり、それまでカトリック教会では、聖職者と修道士しか読めなかったラテン語の聖書しかなかったが、東方教会やユダヤ教会が使っていたギリシア語やヘブライ語の聖書から各国の言語への翻訳が進められるなど、旧来の教会の権威に対する疑問が具体的な形となって活発化した。

 マルティン・ルター(Martin Luther 1483年~1546年)はドイツ人神学者であったが、人は善業により義を与えられるとするそれまでの聖書の解釈(理性と信仰の並立)を見直し、人は信仰によってのみ義とされるとの認識(信仰義認)に到った。その帰結のひとつとして、カトリック教会が発行していた罪を金で軽減できるとする免罪符(indulgentia)の濫用に対する疑問を「95ヶ条の論題」として1517年にラテン語で公表し、翌年ドイツ語で出版した。これが発端となり、1521年の教皇回勅によりルターはカトリック教会から破門された。
 破門された後、ルターはザクセン選帝候フリードリヒ3世の庇護の下、エラスムスのギリシア語テキストをもとにした新約聖書をドイツ語に翻訳した。一般人が読めるこのドイツ語新約聖書はその後、ドイツ語圏で広く読まれることとなった。
 ルターは、1534年にはラテン語旧約聖書のドイツ語訳も完成させた。ただし、このドイツ語旧約聖書には、マソラ本(ユダヤ教ヘブライ語聖書)にないものを旧約聖書から外したとされる。

 ルネッサンスは自然科学の進歩が旧来のキリスト教思考の転換を促したと言えるが、その決着をつけたともいえるのがアイザック・ニュートン(Isaac Newton 1642年~1727年)である。ニュートン自身はキリスト教徒であり、自分が発見した法則が神の存在を証明する一助になると考えていたが、それは神の概念を大きく変える起爆剤ともなった。
 ニュートンは数学を用いて物理学の基礎を作り上げたが、万有引力の法則は地上での現象に限定されず宇宙全体に適用される法則であることを証明した。この宇宙に普遍する物理法則があるという事実は、伝統的な神学の世界論に劇的な衝撃を与えた。
 以後現在に到るまで、キリスト教の神は宇宙普遍の物理法則と密接に関係している、更には極論として宇宙的な法則こそが神である、という主張が神の存在を合理化する最後の逃げ場である、との考えが根強く残ることになる。
 
 ルネッサンス期の哲学の時代的特徴は次のように要約できると思う。

 ① 実証主義に基づく自然科学の発見が、キリスト教神学と哲学に多大な影響を
   与えた。
 ② 固定観念の否定的な人間観が否定され、多様な人間の可能性を肯定する価値観
   が生じ、多様な価値観を持つ哲学の進化が始まった。
 ③ ヨーロッパの文化基盤となっていたキリスト教においても再生が図られた。

(4)ルネッサンス以降の認識哲学(17世紀~18世紀)
 ルネッサンス期に人間と自然が再発見され興奮に満ちた時代が終わると、その成果も踏まえて、西洋哲学を一貫した体系にまとめあげようとする動きが始まった。
 観念論と唯物論は西洋哲学史の全体をとおして流れる二大潮流であるが、自然科学の発展はこのふたつの相対立する思想を際立たせる効果をもたらしていた。ニュートンの成果である機械的な世界の秩序は、唯物論にとっては強力なバックグランドとなり、キリスト教の神を信ずる者にとっては神の存在がその秩序のバックフォースであるとの論拠となった。

 ルネ・デカルト(Rene Descartes 1596年~1650年)は、ギリシア哲学からルネッサンス期の哲学までの間に自然科学と哲学、神と哲学に関わる混沌とした状態にあった哲学を体系化する努力を始めた。デカルトが提示したのは、全てのものごとをまず疑うことから始め「己の認識とはどの程度確かなのか(認識論)」ということが出発点であるとし、次に取り組んだのが「身体(物質)と心(精神)の関係」であった。この二つの課題はデカルトからカントまでの150年間の哲学の主要テーマとなった。
 デカルトによる哲学体系とは、哲学全体を一本の樹に例え、根に形而上学、幹に自然学や諸学問、果実には医学、機械学、道徳などを当て、哲学の成果はこれらの果実から得られると、考えた。なお、デカルトの哲学体系には歴史学・文献学などの人文学系の学問を含めず、もっぱら数学・幾何学などの精密な学問を主体に考えていた。
 しかしながらデカルトを含めこの時期の哲学者は、依然として根強いキリスト教を基底とする西洋文化の強い影響下に置かれており、神の存在を否定した前提から哲学を再構築することはなかった。デカルトも、全ての存在を保持する力として神が存在が必要である、という前提を神の存在証明とした。この論理は自己矛盾を呈しているが、これを疑問とはしなかった。
 バルフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza 1632年~1677年)は、キリスト教とユダヤ教の教条主義的な聖書の読み方を否定し歴史批判的な読み方をすることにより独自の神の解釈を確立した。神は超越的な原因ではなく、万物に内在する原因であり自然そのものである、とデカルトとは異なる主張をしたが、やはり神から離れての理論構築はできなかった。

 ジョン・ロック(John Locke 1632年~1704年)は、経験論的認識論を体系化した。
 ゴットフリート・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz 1646年~1716年)は、17世紀のさまざまな学問(法学・政治学・歴史学・神学・哲学・数学・経済学・物理学・論理学など)を統一し、体系化しようとした。数学などの分野で業績を残したが、哲学分野では認識論で直感でも経験でもない無意識の関与を初めて言及した。
 デヴィッド・ヒューム(David Hume 1711年~1776年)は、人間の知と経験論の限界を示しイギリス経験論哲学の完成者と言われる。ヒュームは、魂の不死や神の存在を証明しようとする試みを否定した。理性の限界を認識していた不可知論者であった。

 イマヌエル・カント(Immanuel Kant 1724年~1804年)は、ドイツの哲学者でありドイツ観念論哲学の祖と言われ、後の西洋哲学全体に強い影響を及ぼした。自然界にあるものの認識は人間の感性と悟性(理性)を通して行なわれるとして、自然界の因果律も悟性に元々備わっている因果律があるからこそ普遍的な因果律として存在し認識できる、という認識論を主張した。カントは、人間は感覚的な存在と理性的な存在の両面性を持つとした。また、人間には不死の魂があり、神は存在し、人間には自由意志があると前提することは、(証明ではなく実践的要請として)人間の道徳には欠かせないと考えた。従って、人間には道徳律に従う自由意志があるところが動物との違いであるとした。

 デカルトからカントまでの哲学の流れは、バロック~経験主義~啓蒙主義~ドイツ観念論と分けることもできるが、要約すると次のようになると思う。
 
 ① 社会科学・数学・自然科学など幅広い学問分野の体系化を図るのが哲学の目的
   のひとつであるとの認識があった。
 ② 神を客観的に位置づける努力がなされたが、それは結局、理性の限界を明らか
   にし、理性では客観化できない神を肯定することとなった。
 ③ 認識する当体である人間自身の内的な原因が重要であるとの認識論が確立され
   た。


(5)近世から現代(19世紀~21世紀)
 理性には限界があり、ものごとの本質について知ることにも限界がある、その上で自分自身の自由度が高いことが明らかになり、その延長として、個人はその人生を好きに解釈しても構わない、更に自我(エゴ)を大事にするという考え方が強まった。このような考え方は18世紀後半から19世紀中頃まで続き、ロマン主義と呼ばれた。

 ヘルダー(Johann Gottfried Herder 1744年~1803年)は、歴史の流れも目的に向かうプロセスであると考えた歴史哲学者であった。歴史のそれぞれの時代には個々に価値があり、それぞれの民族にも固有の心がある、と主張した。
 フィヒテ(Johann Gottlieb Fiehte 1762年~1814年)は、キリスト教の神にこだわらない神の概念を主張し無神論論争を引き起こした。
 シェリング(Frierich Wilhenm Schelling 1775年~1854年)は、精神と物質の統合を図ろうとした。人間の魂も物質世界も絶対者である世界精神の現れだとする、いわゆる同一哲学を唱えた。
 この時代の最大の哲学者と言われるヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel 1770年~1831年)は、ドイツの神学者であったが、ロマン主義の哲学を最終的に統一した人物と言われる。ヘーゲルは独自に世界精神(世界理性)を定義し、人間の思考・言論の総体であるとした。また、人間の認識・思考が重複して普遍的な真理が作られるとし、その真理は絶対的なものではなく主観的なものであるとした。また、哲学は、時間の流れと歴史の一時点において作られた基準であり、どの時代にも通用する性質のものではないと考えた。世界には異なった考えの対立がまずあり、そこからより良い第三の考えが生まれることにより世界が発展すると考えた。これを、テーゼ、アンチテーゼ、シンテーゼと呼び、このテーゼ・アンチテーゼの繰り返しにより発展するという考え方を弁証法的歴史観と呼んだ。
 キェルケゴール(Soren Aabye Kierkergaard 1813年~1855年)は、ヨーロッパ文化とヘーゲル哲学の批判者であった。真理は、ヘーゲルが主張するように国家などの大集団に属するものではなく、自分の内にあると考えた。理性で神をとらえようとしたり、神の証明をしようとすることは意味のないことであり、そのようなことで満足するのであれば既に信仰の情熱を失ったことと同義である。自分にとっては、神は客観的にとらえることができないゆえに信ずるのであり、キリスト教が自分にとって真実か、ということが重要なのである。キェルケゴールにとっての実存、主体的な真理、信仰とはそのようなことを意味していた。

 以上が、ロマン主義ともよばれる哲学者であるが、これ以降の哲学は「~主義の哲学」の時代と呼ばれることは二度となかった。
 哲学の対象は多様化し、個別分野化し、また精神医学や政治学というように異なる分野に哲学の分野が広がっていった。このため哲学全体をとらえて共通する価値観や視点をグループ化することは難しい時代に入ったと言える。

 ただ、敢えて現代にまで通じる共通点といえるのは次の二点であろう。
 ① 間断することのない科学の進歩の時代に入り、哲学・思想は科学の成果と矛盾
   が生じない形でしか存続できなくなった。
 ② 真の意味でのキリスト教の神を否定する哲学・思想が生じてきたことにより、
   哲学と神学とが明確に区別できるようになった。


 フォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach 1804年~1872年)は人間主義的唯物論を唱えた。フォイエルバッハ以前の無神論者は聖書解釈学の範疇から出ていなかったが、フォイエルバッハは、人間は個人としては有限で無力だが、人類(共同社会)としては無限で万能である、としてキリスト教の神とは人類を個人の人間の外に置いた概念に過ぎず、すなわち、神とは人間である、と主張した。この主張は、マルクスの思想形成に強い影響を与えることになった。

 マルクス(Karl Heinrich Marx 1818年~1883年)は、ヘーゲルの主張した歴史はふたつの力の対立でありその対立の中から新しい力が生まれるという考え方を引き継いだ。この歴史を動かす原動力は経済活動であるという新たな判断を導入し、社会の構造を上下ニ段ととらえ、下部構造である経済活動が変わると、政治・宗教・道徳である上部構造も変化する、という弁証法的唯物論を構築した。
 また、マルクスの時代であれば、生産資本を所有する資本家階級と労働力である労働者階級の間の対立があり、搾取されている労働者階級が解放されるためには革命が必要である、と主張した。
 マルクスは1848年にエンゲルス(Friedrich Engels 1820年~1895年)の協力を得て、共産党宣言を発表し、暴力革命によってのみ労働者階級は力を得ることができると、労働者の団結と蜂起を呼びかけた。
 この共産党宣言により、1917年のロシア革命(十月革命)が誘起され、その後ソヴィエト連邦を初めとする多数の社会主義国家(共産国家)が誕生することになる。この意味で、マルクス-エンゲルス思想は世界を動かす力を持っていたと言えるが、マルクスの本来の判断であれば、資本主義社会の成熟が共産主義国家への移行を促すはずであったが、実際には農奴が残る後進地域で革命が起こった。また、新たに誕生した社会主義諸国は、生産手段の共有化による平等は経済の非効率化を招き、共産党エリートによる独裁専制が労働者を拘束することになり、軍事力の異常な拡大が経済破綻をもたらし、20世紀の後半に次々と崩壊していった。

 ダーウィン(Charles Robert Darwin 1809~1882年)はイギリスの自然科学者であるが、自然選択説による進化生物学の基盤を確立した。哲学者ではなかったが、ダーウィンの新説は、神が人間と自然を造ったというキリスト教神学の基盤をなす世界観から人間を解放した。多数の哲学者がなし得なかったことを実現したという意味において、ダーウィンは西洋哲学史に名を留めるに値する。

 ニーチェ(Friedlich Nietzsche 1844年~1900年)は、「神は死んだ」と叫び、キリスト教の全てを否定した。
 フロイト(Sigmund Freud 1856年~1938年)は、医者であり文化哲学者と呼ばれる。フロイトの功績は、意識の下に無意識または意識下と呼ばれる心の深層部を発見したことにある。
 サルトル(Jean-Paul Sartre 1905年~1980年)は、無神論者として、自分だけが自分の存在を知っているとして、人生は自分が創るべきドラマであるとの実存主義こそヒューマニズムであると考えた。

 20世紀の哲学は過去からの哲学をそのまま踏襲したり、もしくは部分修正する動きもあったが、分析哲学、有機体の哲学、エコロジーの哲学、環境哲学、また科学論・技術論の哲学、などなど多種多様な哲学が登場し、そして哲学の定義自体も統一されることはない状態となった。
 現在の西ヨーロッパの主流は分析哲学の流れであるが、これも全体として統一されているものではなく、共通して言えることは、(1) 解明されるべき真理は存在せず、論理的明晰化をはかることが哲学の目的であるとし、(2) 論理的言語分析の手法を用いて諸命題を明晰化することのみがほぼできることである、としている実証主義の流れである。

 現在の西洋哲学は厳しく言えば、哲学という学問域があるがゆえに哲学が存在する、ともいえる哲学そのものの実存思想がある、としか言いようのない状況に陥っている。
 このような状況が、3000年近くに及ぶ西洋哲学の到達した帰着地であり、過去様々な思考熟慮の試行錯誤と累積が決して実り豊かなものとなってはいないのは、なぜであろうか。
 西洋哲学の歴史は、川の流れに例えるのであれば、源流からの清涼とした流れが多数の支流からの流れと合流し、とうとうとした大河となって大洋に注ぐ、のではなく、途中で日照りや干ばつに会いどんどん消耗して、とうとう川が地に消えてしまう、ような姿と言えよう。
 キリスト教に全てを支配され、神学やまたその核となる神の概念を意識するかしないかに関わらず無視して思考することが許されない社会土壌であったことが、西洋哲学・思想の最大のハンディキャップであったと言えると思う。
 20世紀から始まったキリスト教の衰退は、神の規制にとらわれない多様な哲学・思想を誕生させているが、依然幾つかの根本的な命題を乗り越えていないと思われる。
 西洋流の哲学が人間にとって意義あるものとして存続するのであれば、少なくとも次にあげる命題から逃げることはできないのではないかと推察する。

 ① 科学と数学から、「宇宙には因果律が働いている」ということが事実として
   提示されているが、これは宇宙には法則性と真理がある、ということを示して
   いるのではないか。
 ② 物質的存在と精神活動を二律背反としてとらえたことにより人間・自然・宇宙
   の実態を説明することは矛盾を生ずる、ということが確認できたのであれば、
   而二不二(色心不二)という概念と空仮中の三諦という仏法の分析法で人間・
   自然・宇宙を見直してみる必要があるのではないか。
 ③ 人間自身とその環境の関係について、完全に別個のものであるということは
   既に科学的に否定されている事実であるが、哲学的にも自身と環境についても
   やはり而二不二(依正不二)という概念で見つめ直す必要があるのではないか。
 ④ 人の心の実相を、一念三千という仏法の見方に対して、西洋哲学の総力を
   あげて否定できるかどうかを検証する価値があるのではないか。
 ⑤ 西洋哲学の帰納法による方法論が破綻しているといえるのであれば、仏の悟り
   から出発し3000年の歴史を有する仏法を、西洋哲学の全ての論・説と比較
   してその比較分析により新しい哲学体系を構築できるのではないか。


 私は袋小路に行き詰まってしまったと思える西洋哲学全般を見渡して、東洋の英知ともいえる仏法を西洋哲学の視点から見直すことが非常に意義のあることと思える。
 従って、以上の命題は決して西洋哲学に対してのみ提示されるものではなく、全地球レベルでのイスラム教哲学、ユダヤ教哲学など、様々な思想、哲学や宗教をも含めて提示されるべき命題ではないかと述べて、本抄を終えたい。

[参考文献など]
「ソフィーの世界 上・下」Jostein Gaarder著(NHK出版)2011年
「現代の哲学・思想」小坂国継/本郷均編著(ミネルヴァ書房)2012年
「ギリシア哲学」ギリシア哲学、他 Wikipedia以下項目を参照。
 ミレトス学派、タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネス、パルメニデス、
 ヘラクレイトス、エンペドクレス、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、
 アカデメイア、ヘレニズム、ヘレニズム哲学、アウグスティヌス、
 トマス・アクイナス、三位一体、十字軍、西ローマ帝国、東ローマ帝国、中世、
 95ヶ条の論題、イベリア半島、ウィリアム・シェイクスピア、ガリレオ・ガリレイ、
 ジョルダーノ・ブルーノ、バールーフ・デ・スピノザ、プロテスタント、
 マルティン・ルター、ヨハネス・ケプラー、ルネサンス、レオナルド・ダ・ヴィンチ、
 火縄銃、形而上学、神聖ローマ帝国、聖書、贖宥状、
 ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル、セーレン・キェルケゴール、
 フリードリヒ・シェリング、ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー、
 ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、現代思想、哲学、
 ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ、カール・マルクス、
 フリードリヒ・エンゲルス、ロシア革命、チャールズ・ダーウィン、分析哲学
 他。