020_無限
無限について


 無限とは限りがないことであるが、有限の脳細胞しか持たない人間が本当に無限を理解できるのであろうか?
 おそらく理解できる、と思う。「おそらく」と但し書きをつけるのは、現実の中で生きる人間としては現実から飛躍した無限を実感する事はできないと思うからである。実感はできないが、理解はかろうじてできると思う。
 我々が無限を理解する方法はふたつはあると思う。ひとつは直感力で認識した「有限」を思考作業で否定して無限を認識することであり、もうひとつは数学の記号による認識と思考方法である。物理学は残念ながら有限の対象しか扱えず無限には力が及ばないかもしれない。
 
 無限は、空間的(もしくは距離的)な無限大(もしくは無限遠)と、数量的な無限個(もしくは無限回)、そして時間的な無限過去の三つに大別できるのではないか。無限大の反対として無限小もあり得るが、これは後で述べる様に極めて不可解な思考迷路につながっている。

 ここで無限と有限の関係を考えるのに、ひとつの例をあげてみたい。
 100メートル先のゴールに向かって歩いてみよう。まず、ゴールまでのちょうど半分の距離の50メートルまで歩く。次に残りの半分、すなわち50メートルの半分、の25メートルを歩く(これで50+25=75メートル歩いたことになる)。さらに残りの25メートルの半分を歩く(これで50+25+12.5=87.5メートル歩いたことになる)。同じ様に残りの距離の半分の距離だけ進むとすると、常にゴールまでさらに進んだ距離と同じ距離だけが残ることになり、限りなく同様のことが繰り返される。この方法だと100メートルのゴールに限りなく近づく事ができるが、何万回、何億回進んでも未だゴールまで極わずかの距離が残ることになる。100メートルという有限の距離に到達するのに無限回の歩みが必要になるということになる。
 これを単純化して数式で表すと、
1/2 + 1/4 + 1/8 + 1/16 + 1/32 + 1/64 + ・・・・・・・= 1
 ここで注目してほしいのは、「 = 」となっていること。無限個の数字の合計が有限な数字である「 1 」になるということ。言い換えると、最も基本的な数である1が無限個の数字 (1/2
n)の合計で表されるということになる。
 直感的には合計は1に限りなく近づくが1にはならない、ということではあるが、数学的には1になる、ということになる。「≒」ではなく「=」なのである。理解できるだろうか?
 同じような思考は古代ギリシャ時代に「アキレスと亀」といわれるゼノンのパラドックとしても記録されている。

 上記の例は無限と有限が表裏一体の関係になっているが、無限と有限が全く離反して相容れない場合も多い。「π(パイ)」の記号で表される円周率の3.14以下続く小数は無限に続き一定のパターンが見えない。
 また、次の数式は無限大になってしまう。
  1 + 1/2 + 1/3 + 1/4 + 1/5 + ・・・・・・・=
(無限大)
 ところが同じ様にもみえる次の数式は円周率を二乗した数値の1/6の数値になってしまう。これはスイス人数学者のオイラーが18世紀に発見したが、数学が宇宙の何らかの真理を探求できうる手段であることを示唆する発見であった。
  1 + 1/2
2 + 1/32 + 1/42 + 1/52 + ・・・・・・・= π2/6
 さらにオイラーは上記の左辺(もしくは右辺)が素数(2、3、5、7、11、13・・・・)の積(掛け合わせ)を使って表すことができることも発見した(オイラー積)。
 まさに、無限と有限の絶妙な関係が数学の世界で発見されたことになる。数学者が宇宙を理解する認識法としての数学に酔いしれるのも理解できる。

 無限大とか無限遠というと人間が頭の中で理解しようとすると宇宙大というイメージを思い浮かべてしまうのではないだろうか。宇宙は果てのない無限の世界であるとして、その限りない大きさと光でさえ永久に届かない遠い遠い果て、が無限大であり無限遠であると認識しないと理解ができないからではなかろうか。

 過去はどこまで遡れるのであろうか。人間の一生ではとても経験則として不足しており、これもまた何かを頼りに考えないと人間は理解できない。太陽が誕生したのが約46億年前、地球は・・・・同じく約46億年前、ビッグバンは137億年前、宇宙は有限の過去から始まったのか?? ビックバン説が出始めた当時はビックバンがこの宇宙の原始、始まりだと考えた人もいたが、今はビックバン以前の大宇宙の姿の模索が始まっている。
 当然といえば当然である、ビックバンによって宇宙が始まったとするのであれば、ビックバンの起きたその原因がその過去にあったはずであると考えるのが、「時間」はビックバンによって作られたという証拠がないことと、因果律が宇宙の存在律であるとする最新物理学の常識であることを併せ考えれば、当然の帰結となろう。

 さて、無限小についてはどうであろうか。
 我々が住むこの世界、宇宙といってもよいと思うが、はさまざまな原子からできているとかつて教わった。物理学が進化するに従って原子より更に小さな構造が徐々に明らかになってきている。最も小さな水素原子は素粒子(陽子、中性子、電子)から構成されている。その素粒子も更にフェルミ粒子とボーズ粒子に分類される基本粒子とそれに作用する力から成り立っている、というのが最新の物理学の成果である。が、この最小と思われた基本粒子も更に(仮称)プレオンと呼ばれる粒子が組み合わされて構成されていると考え始められている。物質の微小単位はどこまで小さくなるのかは依然不明であるが、ひとつ言える事は、この宇宙の構成単位は0(ゼロ)ではないということだ。ある大きさを持つ何かである。この何かとは、物質なのかエネルギーなのかそれともその融合体なのか、は別として、いずれにしてもあるサイズ・大きさを持った構成単位である。
 とすると、いくら数学的に無限小を計算することができたとしても、物理学的には無限小は存在しないということになる。数学が宇宙の実態や実相を探求する有効な手段であるならば、数学的な無限小がどのような数学的な限界を導きだすのか、と私は非常に興味がある。この限界が数学的に提示できないのであれば、数学そのものの宇宙の真理探究の手段としての限界を示す事にもなるのではないか、というのが私の見方である。

 無限を認識する人間の努力の一旦を説明してきたが、やはり、人間が無限を理解するのは「おそらく」とか「やっと」というのが実情ではなかろうか。決して人間の限界を軽んじているわけではないのだが。