019_嵐山倶楽部踏石
不二(ふに)とは


 「不二」を「ふに」と読む場合、不二は仏法用語となる。而二不二(ににふに)と同一の意味をもつ短縮語である。而二不二とは「而(しか)も二にして二ならず」ということであるが、一往は二つのものと立て分けができるが、再往、本質的には二つの別のものではなく一体である、という意味である。

 黒か白か、正か邪か、と二律背反として物事をみていく西洋キリスト教的(イスラム教的でもあるが)な視点とは異なり、東洋仏教的とも言うべき見方が「不二」であり、人間や自然、更には宇宙に関わる現象を見極める際に極めて有効なとらえ方ではないかと思う。自然を人間と区別対比してとらえるのが西洋文化、自然と人間を融合化してとらえるのが東洋文化、といわれるのもこのような違いによるものであろうか。
 これは極端な言い方に聞こえるかもしれないが、「不二」は東洋文化と西洋文化の本質的な違いを説明できるキーワードではないかとも、私は考えている。

 また、東洋文化の中でも、インドで生み出され、中国で精緻体系化され、日本で社会化された仏教においては、この「不二」という哲学的な概念が高度な思想の骨格を形作っているように思える。
 具体的には仏法用語として、生死不二、修性不二、善悪不二、述成不二、自他不二、身土不二、初後不二、三業不二、権実不二、染浄不二、迷悟不二などの使われ方をされているが、特に、日常生活や環境問題、また自然科学にも深く関わる「依正不二(えしょうふに)」や「色心不二(しきしんふに)」が現代にも幅広い応用が効き興味深い。現代人の知恵として、依正不二と色心不二を常識として知っておくのも損ではなかろうと思う。

 依正不二とは、依報(えほう)とは環境のことであり正報(しょうほう)とは主体であり衆生のことである。主体と環境は別々に立て分けられる事であるが、主体がなければ環境は存在せず、また環境によって主体は作られる。その意味で主体と環境は相互に密接な応報を保つ不二の関係にあるといえる。例えば、衆生の生命が濁れば衆生の住む社会も乱れてくる、逆に社会に思想の混乱があれば我々の生活にも害が及ぶ、のも依正不二の実例といえる。

 色心不二とは、色法(しきほう)とは物質の働きであり人に当てはめれば肉体であり、心法(しんぽう)とは精神の働きであり心である。色法によって全てが決まると論ずるのが唯物論であり、心法が実態であると論ずるのが唯心論であるが、仏法では色法と心法は相反する別の働きではなく不二の関係にあると説いている。人の肉体面と精神面の働きは別々ではなく、人間の同じ実態の生命活動が二つの面として顕現されているのであり生命の実態はひとつに融合されている、としている。心が健康になれば身も健康になる、逆もまたしかなり、とは良く言われる事であるが、これは人がまさに色心不二の当体であるということに他ならない。

 「不二」を「ふじ」と読むと、一般に使われる「二つと無い」という意味になる。
 富士山を昔、不二山と呼んでいたことがあったが、これはこの意味で使われたと思う。お菓子の老舗の不二家もこの意味にちなんで付けられたのであろう。
 
 不二をどう読むか。「ふじ」だけではなく「ふに」の方も覚えておくとNOWであろうと思うのでお勧めしたい。