#083 新日本古代史

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新日本古代史


 従来から古墳や古墳時代に関わる謎や疑問が数多く提起されてきたが、古墳の墓碑銘の画像解析技術を使った研究によりこれらの論争に決着をつける驚くべき成果が報告されている。まさに、日本古代史の全面見直しとも言えるような快挙である。

 まず、その成果を幾つか紹介したい。
(1)魏志倭人伝に記録されている邪馬台国と卑弥呼について、場所と人物の特定がなされた。
(2)神武天皇以来の上代天皇の墓碑が発見され、薨去年月日、没年齢が確定できた。
(3)古事記・日本書紀に神代の神々として登場するされる伊邪那岐(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)や天照大神(アマテラスオオミカミ)などが実在の人物であることが判明し、その生存時期も確定できた。
(4)古墳の築造が遅くとも紀元前
3世紀に始まっていたことが確認された。これにより弥生時代(従来説では3世紀中頃まで)と古墳時代(同3世紀中頃以降)の時代区分を見直すことになろう。
(5)秦の始皇帝の命による徐福の東方航海に関し、徐福が実際に日本に到着し定住したことが確認された。

 これらに関しては、最近に至るまでは日本古代史に関わる専門家や研究者の間でさまざまな対立する主張がなされてきており、中国の史書や古事記・日本書紀(記紀)などの限られた文献や遺跡・遺物などからの考察や推定・推理によって、いわゆる定説や異説が飛び交う状況にあった。

 この状況にいわば終止符を打ったのが、元自衛官で古代史研究家であった池田
仁三氏(2013年逝去)による古墳墓碑の科学的手段による判読であり、墓碑をカラー写真に撮りその画像をCG解析することにより、風化・劣化して見過ごされていた文字の判読を可能にした。判読にあたっては航空工学者であり古代史研究家でもあった井上赳夫氏(2003年逝去)の協力があった由。

 第43代元明天皇(721年崩御)以前の古墳には墓碑や墓誌が存在しない」という通説が考古学界や歴史学会の一般常識とされていたようであるが、池田氏はこの通説を実地の調査で次々に覆していった。
 天皇を始め皇族、有力豪族などの古墳には棺を納めた石室の入口上部、石室内部の壁、石棺の蓋板、陵前・案内石碑などに墓碑銘が彫られており漆・墨により文字が書かれている。墓碑銘は数世紀にわたって共通の標準化された様式で陵主名(埋葬者名で大半が古事記の記述通りまたはその一部省略形)、干支・薨年月日、没年齢が記録されている。
 従って現存している古墳の墓碑銘はもとより、古墳築造後に石材として別の場所に移動させられた石碑に残されている場合でも墓碑銘が判読できれば、古事記(と日本書紀)に記述されている人名との対照によりその葬られた人物の確定ができ、墓碑銘からの死亡年月日・没年齢によりその人物の生存期間が判明する。
 また、井上赳夫氏が発見した前方向の法則「前方後円墳の基軸は稜主の(宮跡碑の所在する)宮跡、出生地、その古墳を築造した王の宮跡を指している」により、墓碑・出土遺物で陵主を確定しにくい場合でも傍証として役立てることができる。

 次に、上述した主要成果5項目について少々説明を補足したい。

(1)邪馬台国と卑弥呼:
  日本の古代史については記紀以外には日本の歴史書は残っていないとされていることから、中国の史書の断片的な記述をもとに出土遺物などの情報との関連性を推定するのが日本古代史の研究のあり方となっていた。古代については記紀には相対的な年代(天皇期・元号)しか表記されていないために、絶対的な年代表記されている中国の史書との関連については常に誤差が伴うのが宿命となっていた。
  その典型的な例が、卑弥呼の人物特定と邪馬台国の場所特定の難しさであった。卑弥呼と邪馬台国のどちらをまず定めるかについては、従来の学説は卑弥呼の年代は(中国史書から)ほぼわかっていることにより、まずは邪馬台国の所在地がどこかについて大論争が続いていた(現在も続いている模様であるが)。
  しかし墓碑銘の判読・解明により、「魏志倭人伝」に登場する
卑弥呼が(古事記の)倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)であり(日本書紀の)倭母母曾毘賣命であることが判明した。卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女であり生存期間は(西暦)115~198年で84歳で亡くなった。これは全て奈良県桜井氏にある箸墓(はしはか)古墳墓碑銘の判読によってもたらされた。従来よりこの大型の前方後円墳は卑弥呼の墓であるとする説もあったが認知されていなかった。
  この卑弥呼の人物確定と墓陵の確定により、卑弥呼が「女王」をしていたという邪馬台国が畿内にあったことが確定し、更に「邪馬台国」とは倭(やまと)の音訳であることも言えるようになった。
  なお、卑弥呼の後女王となったとされる壱与についても、豐鉏入比賣命であり第10代崇神天皇の皇女(248年64歳にて死去)であり、奈良県大和高田市にある築山古墳の陵主である。

(2)神武天皇以降の生存年が確定:
  記紀には初代神武天皇から代々の天皇についての記述がなされているが、記紀成立時(8世紀)以前の天皇についてはその実在を否定する種々の学説があった。特に神武天皇もしくは第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までは実在の人物ではなく神話上の架空の人物であるとの考え方が一般的な学説であった。
  しかし神武天皇の墓陵が作られたとされる奈良盆地畝傍山の近傍の神社や橿原宮跡地などから墓碑が見つかり神武天皇墓陵の存在が確認でき、実在した大王(天皇)であることが明らかになった。第2代綏靖天皇以降についても墓碑銘の判読により実在したことが判明した。
  従来、神武天皇の即位年を初年とする「紀元」は紀元前660年とされていたが、神武天皇の生存期間が
(西暦)紀元前107~45年であることが判明したことにより、600年ほど長くみていたことになる。もし神武天皇が天皇初代であるならば、天皇家は紀元前1世紀から始まった、とするのが史実となる。

(3)実在した神々:

  記紀には神武天皇に継ながると推測される祖先が神々として記述されている。
  この神話の中に登場する国を創始した神が伊邪那岐(男神・イザナギ)・伊邪那美(女神・イザナミ)とされており、日本書紀ではこの二人の子供の一人が天照大神(女神・アマテラス オオミカミ)とされている。
  記紀でもイザナギやイザナミは神話の中の登場人物であり国や島を創造した天上の神々と記述されており、最近に至るまで日本史の一般的な理解では実在した人物ではなくあくまで神話であるとされていた。
  しかしながら、イザナギ(墓碑銘:天伊邪那岐大御神)が熊本県嘉島町の井寺古墳の陵主であること、イザナミ(墓碑銘:天伊邪那美大御神)が岡山市の千足古墳の陵主であることが判明し、更に天照大神(墓碑銘:天照大御神)が熊本チブサン古墳の石室から陵主であることが発見された。この有名な親子は共に紀元前3世紀に存命していたことも確定された。
  参考までに、天照大神の弟である須佐之男(スサノオ)は島根県松江市の御崎山古墳に葬られたことが判明している。また、古事記にある海幸彦(ウミサチヒコ・火照命)の墓陵は奈良県桜井市にある纒向石塚古墳であることが判明しており、やはり紀元前2世紀の実在の人物であった。
  太安万侶が編纂した日本最古の歴史書である古事記、そして舎人親王らの編纂による伝存する最古の正史である日本書紀(日本紀)に記述された日本の天皇家につながる神話が1300年を経てようやく実史に基づく記載であったことが判明した。日本史を変える大発見と言えよう。
  また、日本(古くは「ヤマト」が国名および首都地名)は大和(奈良県)で天皇家(大王・おおきみ)が始まったとして間違いないと思われるが、神々の墓陵所在地と記紀の記述を合わせて考えると、その源流は九州中部にありそこから東に勢力拡大がなされたことを示唆しているのかもしれない。

(4)古墳時代:
  従来一般的には、古墳、特に前方後円墳が出現した3世紀中頃から7世紀中頃までを古墳時代としている。弥生時代より更にクニの権力拡大と集中が進み、権力者が亡くなるとと大型の古墳に埋葬される基盤が整った時代が古墳時代であろうか。
  しかしこの時代定義には曖昧さが伴っており、古墳、特に前方後円墳の築造時代の推定に不確かさが伴っていた。例えば、上述の天照大神の墓陵である熊本チブサン古墳は紀元前3世紀の築造の前方後円墳であるが、これまで地元豪族の墓であり6世紀初頭の築造とされていた。また、卑弥呼の墓陵である
築山古墳も前方後円墳であるが2世紀末の築造である。
  したがって前方後円墳の造られた時代を根拠として古墳時代とするのであれば、古墳時代は現在一般化している時代をさかのぼらなければ史実に符合しなくなってしまう。新しい日本古代史の再構築が必要であろう。

 (5)徐福伝説:
  徐福は司馬遷が中国前漢の時代に編纂した史書である「史記」に記述がある。それによると、秦の始皇帝の命により不老不死の霊薬を求めて東方に3000人の若人と数百人の技術者を引き連れて五穀の種を携えて航海に出た、とされる。徐福の旅団は航海に出た後、帰国しておらず復命もしていない。徐福が向かったのは東南海にある蓬莱山といわれ日本の方向と言われている。
  徐福が中国出港後どうなったかについては定かではないが、朝鮮半島の西岸に立ち寄り日本に辿り着いたとされていた。
  この徐福の墓が福岡県八女市で発見された。平成4年のことである。竜男山古墳群から徐福が主要部を筆録したと伝えられる「富士文書(宮下文書)」にある徐福、福永、福萬、福壽の徐福一族の墓碑銘が発見され、徐福は紀元前180年に66歳で没したことが確認された。
  徐福が日本に定住したことが疑いのない事実として確認できたことにより、日本各地に伝えられている徐福伝説も信憑性が高まったと言えよう。
  徐福に関しての研究は中国史ではなく日本史としても重要なテーマになったと思われる。徐福集団が日本文化と日本史に大きな影響を与えたことは想像に難くない。

 以上、池田仁三氏らの功績により日本史に大きな変更を余儀なくされたと思われることを五点に絞って述べたが、もう一点述べさせてもらえば、私は古事記・日本書紀の記述内容の信頼性が大幅に向上したことにより、今後は記紀の記述をもとにあらためて史跡・遺物の再評価がなされ、日本古代史の刷新が図られることを期待して本抄を締めたい。

[参考文献など]
「巨大古墳 前方後円墳の謎を解く」森浩一著(草思社)2014年
「日本発掘! ここまでわかった日本の歴史」 文化庁編 大塚初重・他著(朝日新聞出版)2015年
「古墳の古代史 東アジアの中の日本」森下章司著(ちくま新書) 2016年
「画像解析によって解明した 古墳墓碑 上・下」池田仁三著(青林堂) 2013年
「全現代語訳 日本書紀 上・下」宇治谷孟著(講談社学術文庫)1988年
「天照大神」他 Wikipedia以下項目を参照。
 古事記、日本書紀、高天原、古墳、前方後円墳、天皇陵、古墳時代、神武天皇、神武天皇即位紀元、元明天皇、徐福、
 箸墓古墳、井寺古墳l、千足古墳、天皇の一覧、畝傍山、イザナギ、史記、他
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/other/kiki.htm 古事記と日本書紀はどう違うか
他。