#071 ピアノの鍵盤音

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ピアノの鍵盤音


 私は40歳近くになって両側性耳硬化症という両耳の聴力が落ちる症状が出てきたため、中耳のインプラント手術を受けた。
 この手術によって、中耳にあって鼓膜と内耳をつなぐ耳小骨とアブミ骨が、プラチナリボンと多孔性ポリエチレンから構成されるインプラントに置き換えられた。
 このインプラントがいつまで機能するのかは不明ではあるが、既に30年近くにわたって私の耳の機能を支えてきてくれている。

 しかしながら、当然といえば当然かもしれないが、生まれながらの生身の体を人工部品に取り替えるのであるから元の機能を完全に補完することは難しい。
 私の場合、4000Hz前後の高音域の音が聞こえない。この音域はピアノの88鍵盤の一番右の三つの鍵盤(白鍵二つと黒鍵一つ)の音(3951Hz~4186Hz)に相当するが、この鍵盤をたたいてもピアノの音が聞こえない。
 聞こえないという言い方は正確ではない。このの鍵盤をたたくと鍵盤がハンマーを支点作用で押し出し弦をたたき、この弦が振動してピアノとしての音を発生させるが、この弦の振動音が聞こえない。しかし、鍵盤がピアノの台座(鍵盤が置かれている基盤板)をたたく音だけは聞こえる。
 したがって、聴力が健常な人にはちゃんとピアノの音が聞こえても、私には「カタ」という雑音(=打音)だけが聞こえることになる。この打音は結構大きい音がしている。

 どんなに素晴らしいピアノであっても、それがグランドピアノであってもアップライトピアノであっても、鍵盤をたたいて弦をハンマーで打つ伝統的な構造をもったピアノである限り、鍵盤をたたけば(この言葉通り実際に鍵盤は台座をたたいているのであり)この打撃音は雑音として必ず発生しているわけで、この雑音とピアノ本来の弦の音が混ざった音がピアノの演奏音として聞く人の耳に入っている。
 聴衆を魅了するピアノ演奏も実は純粋な弦の音ではなく打音もかなり混じった音であることに普通には気付くことはない。両耳インプラントの私を除いて。

 純粋なピアノ音は雑音発生を最小限に抑えた電子鍵盤による電子ピアノでないと無理なのであろう。
 ただ、雑音が混じった弦振動型の伝統的ピアノの音がもし耳の肥えた聴衆を魅了するのであれば、これはこれで人間的であるとも言えよう。シェフの最後の塩の一振りが食材の本来の味を引き立たせるのも、これまた人間である。ピアノの雑音はちょうどよい塩梅なのであろうか。